原水爆禁止2011年世界大会-長崎 河本さんの参加感想文

 原水爆禁止世界大会は、昨年の広島大会と今回の長崎大会で2年連続して参加する事ができました。

 私は長崎出身です。帰るのは11年ぶり、市街の変わり様を想像しながらの帰郷でしたが、到着してみると以前と変わらない街並みがなつかしく、忘れていた記憶も呼び起こされました。
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 7千人を超える開会総会後、福井の青年は「核兵器をなくす青年交流集会」に参加、東大大学院教授・九条の会事務局長の小森陽一さんと平和運動に取り組んだ青年の代表3名がパネリストになり、各分野・全国各地域の運動を交流しました。
 パネリストになっている長崎の青年代表の中には、同じ小・中学校で学んだ同級生がいて、壇上から降りてくる所をつかまえて声をかけました。相手も私の事を覚えていて、生まれ育った香焼町の事やお互いの近況について話し、「今は離れた所に住んでいるけど、平和運動を通じて十数年ぶりに再会できるとは思わなかった。同級生が熱心に活動に取り組んでいる事を知って元気が出たよ。」と語りました。
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 宿泊したホテル長崎から見る風景・夜景は最高です。私は、あの位置から見る長崎の風景が一番きれいだと思っています。大沢たかお主演の映画に「解夏(げげ)」(原作さだまさし)という作品がありますが、この映画の中に出てくる風景も同じ位置から撮影している場面が出てきます。おすすめできる内容ですので、ぜひ一度ご覧ください。
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 2日目は、朝から民医連の女性とともに折り鶴を持って平和公園に行き、しっかりと折り鶴を結んで来ました。時間に余裕があったので眼鏡橋の観光ポイントであるハート形の石垣を見つけて写真に納めてきました。
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 その後は、分科会14 青年のひろば-学習・交流と被爆者訪問で、14-①「被爆者訪問」は8名構成で33班ほどあり260名以上の青年が参加、福井から参加した医学生と私は先着順の配属で31班になりました。
 31班の被爆体験者は津村はるみさんと池田ミドリさんで、私は顔と名前を見て「もしかして香焼の津村さんと池田さん??」とたずねたら、相手も「あら!河本君、新聞で見てるよ。お婆ちゃんにも新聞届けたら『元気に頑張ってるから安心した』と言ってたよ。」と、会話がはずみました。この事は、先着順の班分けによる偶然の巡り合わせで、心底驚きました。
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 被爆体験は、私が生まれ育った香焼町での体験で、私も初めて聞く話でした。香焼町(当時、香焼村)は、爆心地から8~12キロの位置にあり、負傷者は不明で被災家屋は273戸だったそうです。
 原子爆弾が炸裂した時、池田さんは13才、屋外で妹達5人と遊んでいて、その光線の強さに恐くて我先に家の中にかけ込みました。まもなくして造船所で何かあったのではないか?と、工場が見える所まで行くと長崎市の方向が一面真っ黒い煙におおわれていました。
 兄は長崎市の商業高校で亡くなり、工業高校の従兄弟は翌日の夕方に自力で帰ってきましたが、終戦と同時に死亡しました。兄を捜して入市していた父は、喉の痛みと下痢で入院する事となり、昭和21年5月25日死亡しました。母も病気がちになり各病院で原爆症と言われましたが、入市していないので原爆症と認定されず、10年間の闘病生活でしたが最後は再生不能貧血症によって昭和33年3月死亡しました。
 「核兵器のない世界を」と生涯言い続けてきた夫は、1.2キロ地点で原爆をうけて、顔はうっすらと、腕と背中は強度のケロイドになっていました。夾竹桃の赤い花は「血を吸って咲いている」と花にまで憎しみを持っていました。平成9年8月11日に倒れて入院し、「おれは核廃絶が制定されるまでは死にたくない。」といいながら、5ヶ月後に死亡しました。
 池田さんは語ります。「子供が4人いるので被爆2世問題で気が休まる事はありません。家族や親戚が次々と原爆症で死亡し、原子爆弾の恐ろしさ憎しみを背負って生きている私です。」

 津村さんは、長年にわたる被爆地域拡大是正運動によって2002年4月、爆心地から12キロ以内が第二種健康診断特例区域に追加指定された事を語ってくれました。
 それまでは、長崎の被爆地域は旧長崎市を指定するだけで、その他の自治体行政区は南北に約12キロ、東西に約7キロと原爆被害の実態が反映されていない歪んだものでした。
 津村さんは当時0才の乳児でしたが、後に香焼町での被爆体験(強烈な熱光線、爆風が来た。微熱が2週間続いたなど)を聞かされ、「当時0才だった私も爆風によって運ばれた放射性物質を含んだ大気を吸い込んでいる」と考えると怖くて眠れなかった。「私たちは常に健康への不安を抱えているから、安心して医療を受けられる事が望みなのです。」と運動に取り組んだきっかけを話されました。
 運動は原爆被害と被爆証言をまとめ、測候所からのスケッチで当時の原子雲の広がりが南側約20キロ、北側は大村市上空まで広がり、爆心地から12キロ以内の広範な地域では方向によらず放射性降下物によるかなりの放射線被曝の影響があったことを指摘してきました。しかし政府は「拡大地域の放射線被害はない」と断定して、ガンなどを除く「被爆体験者医療給付」(第二種健康診断受診者証)しか実施しなかった。これは被爆体験による精神疾患が認められた場合に医療費の支給が受けられると言うもので、被爆者の思いとはかけ離れています。
 津村さんは語ります。「現在も『裏付け土壌調査』や『被爆証言調査』を続け、12キロ以内で被爆した全ての住民に被爆者手帳が交付される事を目指して運動しています。また、私たちの経験は必ず福島に生きると思うので、あきらめずに頑張る事ができます。」

 お二人の話を聞いて、私の中には二つの疑問が芽生えました!ひとつめは「私は被ばく3世だったのか?」という疑問、ふたつめは長崎に落とされた原爆はプルトニウム型で毒性が強いから、直線距離で10キロ程度の香焼町で生まれ育った私は、「低線量の放射線を受け続けていたのではないか?」という疑問です。考えると恐いですが、お二人の話はこれからも私の中で生きていくと感じます。
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 分科会が終わってからは、福井から参加している高校生と待ち合わせして原爆資料館に行きました。子供の頃に行った事があるのですが、「原爆=核」の恐怖を再認識する事ができました。
 6年前、敦賀に移住してきた時から「原発も核だからいらない」と自然に思っていましたが、子供の頃から資料館の写真を見たり放射能の危険性を聞かされていたから、原発ゼロや核兵器廃絶の運動にも素直に取り組めるのかな?と思いました。
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 3日目の閉会総会で、大会決議(案)「長崎からのよびかけ」を読んだ女性も香焼町出身の方でした。この女性は私の妹と同級生で、また姉は私と同級生というお互いよく知った仲、青年交流集会で少し話をしていたのですが、大会決議を読む大役を任されていたとは知らず驚きました。
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 今回の長崎大会では、同年代の香焼町出身者の頑張りが目に見えて自分も励まされました。また近所の人たちとも再会し、被爆体験まで聞く事ができました。絵に描いたような巡り合わせで、本当に思い出深い大会参加となりました。長崎大会へ送り出してくださった皆さまに感謝申し上げます。
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 帰ってからの課題は、「原発銀座」と言われる福井県で、原発ゼロを目指し、新たな原発増設をストップさせる事です。大会参加の経験を生かし、「原発=核」と放射能の危険性を訴え、皆さんとともに運動を発展させていきたいと思います。
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この記事へのコメント

一歩
2012年03月01日 19:36
平和頑張ろう原発なくせる運動響け空つながり震災祈って一年間暖かい歩こう職場思う人一緒がんばって助け暮らし人間負けないがんばって大切なはやぶさいい人の明るく笑い空つながり平和つながり話し!
ありがとう黒ハートは考え桜の広場の暮らし一人一人な!

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