美浜町議会議員 河本 猛(こうもと たけし)

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zoom RSS 宇喜多家系図と河本家

<<   作成日時 : 2017/04/15 13:19   >>

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 軍記物は書かれた時代の作者による誇張や創作も多く、軍記物の中に真実が含まれているからといって、すべてが歴史の真実とは限りません。当然、家伝や家系図というのも創作物であり、その家の都合や誇張もあり、すべてが真実とは限りません。しかし、数少ない文献の中で不明確な部分を、新たに発見された文献が埋めることがあります。また、軍記物や家伝などを比べることによって、どちらの記述が正しいのかということも争点となり、研究が進むことによって歴史の真実に近づくことになります。

 岡山県立記録資料館紀要第4号、宇喜多系図によると、宇喜多直家には、春家、一家、就家の兄弟がいます。一般的には春家、忠家が直家の兄弟とされていますが、春家と忠家には重なる記述が多く、同一人物ではないかともいわれていました。宇喜多系図によると春家の次男が忠家です。春家の子が忠家ならば解ける謎もあるのではないでしょうか。

 宇喜多系図の写しです。
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 軍記物で、宇喜多直家の養子になった宇喜多基家は、春家の子であるとか、河本対馬守の子であると書かれていたのを読んだことがあります。しかし、宇喜多系図によると直家の養子になったのは春家の子・与太郎(久家
)で、八浜で討ち死にしたのは基家ではなく久家(春家の子、与太郎)です。
 宇喜多基家(三宅宗本)は、一家の子で、浦上宗景に仕えていた頃に大土居城主となりますが若死にしています。
 春家の子・久家(与太郎)だと、宇喜多能家の父・久家と混同することもあり、軍記物としては同世代の基家を使う方が、都合がよかったのかもしれませんね。
 また、春家の三男には元家がいます。軍記物の歴史観に合わせるために、基家と元家を誤記と解釈して同一人物としている可能性もあります。

 謎が多い河本対馬守ですが、軍記物では明善寺(妙善寺)合戦の時ぐらいしか活躍がないのに、なぜ、宇喜多家で高待遇なのか?という疑問を持っていました。これまで「お福」の出自に河本家が関係しており、河本家は美作菅家党のひとつではないかと考えたりしていましたが、今のところ「お福」との関係はわかりません。
 河本対馬守は、宇喜多直家の妹婿で義兄弟であるとかいわれていますが、宇喜多系図によると直家の兄弟である一家の次男が河本対馬守親家です。
 宇喜多一家は、三宅氏を名乗り、三宅三郎左衛門→三宅大炊助(宇喜多大炊佐、宗快)です。河本対馬守の父が三宅大炊助であることは軍記物と合致します。軍記物は三宅大炊助を直家の叔父としていますが、宇喜多系図では宇喜多興家の三男で、直家の弟です。河本対馬守は直家の義兄弟というより、同族でかわいい甥っ子ということで高待遇なんでしょうね。浦上宗景との戦いでは、三宅源六郎(後河本対馬守)として記載され、松田丹後守暗殺の時には、親家となっています。秀吉公の時代になると河本対馬守と号して宇喜多家の中で重要な役割を担っているようです。

宇喜多系図の現代語訳
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 宇喜多一家は、直家が浦上宗景に仕えた時、春家と同じく召し出され、宗景に仕えます。角南如慶(重義)の女を嫁にして河本城を領すとあります。
 長男の基家(三宅宗本)は、宗景に仕え、大土居城主となりますが若死にしています。
 次男の親家(三宅・河本源六郎)は河本対馬守と号し、直家に仕え熊山城を領しています。秀家の時代には岡豊前と河本対馬は備前の大老とあります。
 また、文禄・慶長の役の時に河本対馬守が岡山城代(留守居)となります。文禄の役は、河本対馬守・宇喜多河内守・奥家老中村次郎大夫が岡山城代。慶長の役は河本対馬守・奥家老中村次郎大夫となっています。

 以前ブログで、宇喜多中納言秀家卿家士知行帳には、「岡山城代 河本対馬守」との記載が、宇喜多秀家侍分限帳では「岡山城代 河内対馬守」と記載されていたと書きましたが、この問題も宇喜多秀家侍分限帳は「岡山城代 河内(宇喜多河内守)・対馬守(河本対馬守)」の意味だと解釈できました。

 直家(長男)、春家(次男)は宇喜多、三男の一家、四男の就家は三宅を名乗っています。出自から同族の三宅姓を名乗ったと考えられますが、一家の子である親家の時に、三宅から河本になると、親家(源六郎)、家幾(源十郎)、一虎(源次郎)、保秀(源太郎)と源氏の系統を名乗ります。
 一家は角南如慶の女を嫁にして河本城を領すと記載されていますが、角南は現岡山県北東部である美作国英田郡角南村が起源(ルーツ)で、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。ほか桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)千葉氏流(現岡山県南東部である備前)などにもみられるということから、源姓ではないような気がします。
 となれば、母系側に源姓とかかわりが深い人物がいると思われます。その人物を特定することは困難ですが、河本は母系側の氏姓かもしれません。
 でも、単純に河本城を領したことで一所懸命の地名姓をつけたということもできますし、武家としての都合上、源姓が必要になったともいえます。そういえば、下剋上の戦国時代は官職などの都合で出自がコロコロ変わっていることも事実としてありますから、公家だ武家だ源氏だ平氏だなどと、100年前の先祖の名前も知らないのに厳格に血脈というものにこだわるのもバカバカしい話です。

 この宇喜多系図はとても面白い資料です。様々な観点から歴史の探究が進むと面白いですね。

 追記 河本が赤松氏の系統だとすれば源姓の可能性はありますね。秀家は関白秀吉から豊臣姓・羽柴氏与えられ文禄3年(1594年)に従三位権中納言になっていることもあり、その家臣(武家)としては守護四職の赤松氏の系統と称することが当時のステータスだったのかもしれませんね。

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