美浜町議会議員 河本 猛(こうもと たけし)

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zoom RSS 日蓮宗と河本家 北辰妙見信仰

<<   作成日時 : 2017/01/24 12:47   >>

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 岡山と言えば備前法華で有名ですが、私の家も日蓮宗でした。今は信仰心もない状態なんですが、岡山市北区建部町川口には日蓮宗の不受不施派の信仰が受け継がれていたようです。僧侶は信者以外からの供養を受けない(不受)、信者は法華以外の僧に供養をしない(不施)。
 不受不施派は、1595年(文禄4年)豊臣秀吉の方広寺大仏殿千僧供養会に出仕を拒んだことに始まり、徳川幕府にも従わなかったことから江戸時代末期に至るまでキリスト教と並んで弾圧の対象とされました。
 明治9年(1876年)に日蓮宗不受不施派が明治政府に公認を受けた際には信者が2〜3万人存在していたとされており、弾圧下においても250年以上秘かに信仰を守ってきました。

 日構上人に関する記述の中に、美作国川口(妙泉庵)の記述がある↓
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 明治期の資料に不受不施講門派信者惣代、河本蜂蔵の名がある↓
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 福渡や川口には本寿院日船聖人についての話が伝わります。日船聖人は實成院日典聖人の弟子・佛性院日奥聖人の兄弟弟子ともいわれています。
 備前蓮昌寺十世、備前妙善寺九世。のち寛永初年に京都妙覚寺に上がり佛性院日奥聖人の薫陶を受けて勉学に励んでいましたが、寛永七年(1630)二月、老中酒井雅楽頭邸において身延側(受不施側)と池上側(不受不施側)との対論が開かれました。
 この対論では理非の採決ではなく上意違背の罪で池上側の負けと採決され寛永七年四月一日池上側の長遠院日樹が信州飯田へ、寂静院日賢は遠江横須賀へ、了心院日弘は伊豆戸田へ、守玄院日領は奥州相良へ、遠壽院日充は奥州岩城へ、修善院日進は信濃上田へ、それぞれ領主お預けの追放流罪となりました。
 佛性院日奥はこの対論には関係しませんでしたが、不受不施義の指導者として、また関東不受不施派の雄として、既に同年三月十日妙覚寺で死去していたにもかかわらず、再び対馬へ流罪となりました。つまり死後流罪として死者の名誉を奪ったのです。

 日船聖人は、日奥聖人の死後、妙覚寺の後を継ぎ京都妙覚寺二十世となりましたが、幕府は妙覚寺を身延日遠に与える決定をし、日遠が貫首として晋山することになったため、日船聖人は寛永七年六月十四日、別記の誓書を連署し、妙覚寺大衆三十余名と共に同年六月三十日、祖像を背負って京都妙覚寺を出寺し、洛北京都紫竹常徳寺に一時隠棲しました。

 1、時節到来あるに於ては、異体同心に一間四面の草庵にても妙覚寺を取立て、不受不施の法水を相守り、像師の御作の御影様を安置する処当門家の本山たる可きの事。
 右の条々違背あるに於ては、法華經中一切三宝日蓮薩埵竝に代々列祖の御罰を罷り蒙る可き者也。
 寛永七年庚午六月十四日   日 船 (花押)    大 衆 (花押)
 1881年明治十五年一月 先に落成していた岡山金川の竜華教院を改め、竜華山妙覚寺として公称許可され252年を経て日船聖人の誓書(遺言)が成就しました。
 その後の日船聖人は、寛永八年備前に帰られますが、寛永十五年「蓮昌寺再建書」などを著し、蓮昌寺の再建に尽くしたりされましたが、もはや蓮昌寺も受不施となり、以後各地を流浪し、晩年は故郷福渡に帰り、川口の妙泉庵跡を隠宅とし、この地方の宗義弘法の本拠としました。
 日船聖人は不受不施派に対する取り調べの厳しさが増すなかで布教活動を続けましたが、晩年力尽き福渡で往き倒れ没したと言われています。
 地元に残る伝承では、日船聖人遺骸は、福渡の庄屋江田家の土蔵内で藩吏の目を逃れて、時間をかけて炭火で荼毘に付し、江田家の墓地の一角に葬られたと伝えられています。

 日船聖人の墓碑について

 鎮守の森の山麓から西の旭川を望む緩い傾斜の扇状地には、かって水田が営まれのどかな田園風景が広がり、山裾と畦道の傍らにこの墓碑が祀られています。
 墓碑について  全高165センチ 棹高90センチ 正面に「両寺中興日船上人覚位」側面に「明暦四戊戌四月十二日化」と刻む。


寛文の法難と矢田部六人衆

 不受不施派の法難は、豊臣秀吉の「千僧供養会」から始まりました。
 「法華経を信じない者には供養せず、布施を受けず」「正法を誹謗する者に与せず、しかも謗法の罪を見て放置しない」「時すでに法華の代なり、國また法華の機なり。然ればすなわち天下を守る佛法はひとり法華宗に限るべし。佛法を助くる國主は専ら法華経を崇めたもうべし」と日蓮聖人以来の不受不施義を主張する日奥聖人は、武家勢力と基本的に対立し、武力を背景にした法難を受ける素地がありました。
 備前岡山藩では、藩主池田光政が「廃佛向儒策」を行い、佛教を廃し神道・神職請けを奨励し、幕府の意を受けて不受不施派の寺311ケ寺を廃し、僧585人を追放しました。
 このような過酷な法難が相次ぎ、寛文六年(1666年)には「真如院妙浄日能」尼が備前父々井村で断食入定するなど抗議が続いていました。
 このような物情騒然の中、寛文八年夏備前磐梨郡佐伯村の本久寺出寺僧の妙覚院日閑は、寺を逃れ各地を流浪していましたが、密かに実家近くの《草庵》を隠れ家として地元の信者に匿われていました。しかし、遂に発見され、日閑ほか2人が岡山へ護送されました。
 これを伝え聞いた地元の信者たちは、折からの田植えの中を苗を打ち捨てて後を追い、共に捕らえられました。
 岡山に着いた信者達は、3名の釈放を要求する言葉と共に《然れども代々不受不施にて御座候えば、ただいま他宗に罷り成り、他宗の手形取り差し出し候事は罷り成らざる由》申し立てているのである。
 おそらく役人の方から、他宗への轉宗を条件に、3人を釈放しないでもないとの意向がほのめかされたのであろうが、彼等はキッパリ拒否したのである。
 これによって、日閑ら六名は、寛文八年六月十九日〔新暦七月二十七日〕岡山柳原刑場で斬首の刑に処せられました。
 1、妙覚院日閑 佐伯本久寺出寺僧。  寛文八年六月十九日寂。二十八歳。
 2、河本仁兵衛 〔蓮通院日達〕寛文八年六月十九日寂。日閑兄 三十一歳とも。
 3、河本五兵衛 〔蓮光院日長〕 寛文八年六月十九日寂。日閑父 六十五歳。
 4、河本喜右衛門〔通円院日教〕 寛文八年六月十九日寂。    三十九歳。
 5、松田五郎衛門〔清覚院日有〕 寛文八年六月十九日寂。    二十七歳。
 6、花房七太夫 〔法雲院日祐〕 寛文八年六月十九日寂。    三十一歳。
 その他、地元親類縁者男女子供に至るまで28人が国外追放の処分を受けました。中には二歳の子供まで含まれていました。
 石上物語「佐伯6人の内、河本・花房の妻子、作州へ立のき施主となり、或は子供を帳面 (寺請)にはずし、法義を改めて施主に立つ」  隆董日敬 不受不施清規「十歳以下の幼子を施主に立つる事は勿論共許の義なり」


日蓮宗と妙見信仰

 日蓮宗と妙見信仰のかかわりは深い。

 妙見(ミョウケン)信仰とは、一般には仏教でいう北辰妙見菩薩(ホクシンミョウケンボサツ)に対する信仰をいいますが、その原姿は、道教における星辰信仰、特に北極星・北斗七星に対する信仰です。

 道教では、北天にあって動かない北極星(北辰ともいう)を宇宙の全てを支配する最高神・天帝(太一神ともいう)として崇め、その傍らで天帝の乗り物ともされる北斗七星は、天帝からの委託を受けて人々の行状を監視し、その生死禍福を支配するとされました。
 そこから、北辰・北斗に祈れば百邪を除き、災厄を免れ、福がもたらされ、長生きできるとの信仰が生まれ、その半面、悪行があれば寿命が縮められ、死後も地獄の責め苦から免れないともされました。

 この北辰・北斗を神格化したのが『鎮宅霊符神』(チンタクレイフシン)で、それが仏教に入って『北辰妙見菩薩』と変じ、神道では『天御中主神』(アメノミナカヌシ)と習合したといいます。

 この北辰・北斗信仰がわが国に入ったのは推古天皇のころといいますが、その真偽は不明です。ただ、奈良・明日香の高松塚古墳の天井に北斗七星が、北壁に北斗の象徴である玄武像(ゲンブ、亀と蛇とがかみついた像)が描かれ、また正倉院御物にも金泥・銀泥で北斗七星が描かれた合子(ゴウス)があることなどからみると、奈良時代に知られていたのは確かです。

※鎮宅霊符神
 鎮宅霊符の“霊符”とは一種の護符で、ご利益の種類に応じて多くの霊符があるといいます。わが国でいう“お札”“お守り”の原点ともいえます。
 鎮宅霊符とは72種の霊符を一枚にまとめたもので、文字通り家宅を治め家人の安全を護る護符であり、これを家の四方に配すれば邪霊排除、いわゆる魔除けに効果があるとされます。
 その霊符が時代とともに次第にご利益の範囲をひろめ、例えば漢の頃、貧しくて病難災厄が続いていたある一家に、ある日二人の童子が訪れて鎮宅霊符を授け、「これを朝夕礼拝祈念すれば、10年にして家おおいに富み、20年にして子孫繁栄、30年にして天子がその家を訪れるであろう」と告げました。
 奇しきことと思いながらも礼拝していたら、お告げの通り天子が訪れてくるまでに富み栄えました。その家を訪れた天子は、その話を聞き、この霊符の霊験あらたかなことに驚き、自らも信奉し且つ天下にひろめさせたとの伝承があり、数ある霊符のなかで最も強力な力を持つ霊符としてひろく信仰されたといいます。

※北辰妙見菩薩(妙見菩薩)
 仏教にいう“菩薩”とは、“悟りを求める人”あるいは“悟りを得た人”の意で、仏に次ぐ地位にある尊格ですが、妙見菩薩は菩薩を称するもののインド由来のそれと異なり、仏教パルテノンでは、弁財天や毘沙門天などと同じく“天部”に属します。一般の菩薩に比べて格が低いということですが、その分、身近な尊格として親しみやすかったのかもしれません。

 妙見とは“妙なる視力”、事の善悪や真理をよく見通すという意で、七仏所説神呪経(5・6世紀頃中国で成立した偽経)には、 『吾は北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん』と現世利益の功徳を讃えています。

 わが国では密教や修験道で重要視され、これを勧請しての国家鎮護・除災招福の祈願が密教僧あるいは修験僧によって盛んにおこなわれたといいます。
 特に日蓮宗では「日蓮が宗門隆盛を祈っているとき、天から大きな明星が降りてきた」とか「日蓮が伊勢の常明寺に滞在しているとき、北辰妙見菩薩が姿を顕した」といった伝承から、宗祖・日蓮との関わりが深く、妙見菩薩を祀る星祭りが盛大におこなわれたといいます。
 また俗信では、眼病平癒に験ある仏として巷間に浸透しています。

※天御中主神
 アメノミナカヌシとは、古事記冒頭の天地開闢に際して、混沌のなかから最初に成り出でた造化三神(アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒ)の中心となる神です。ただ、この神は開闢の冒頭に登場するもただちに身を隠したため何らの事績もなく、古社のなかでこの神を祭神とする社はなく、この神の後裔を名乗る氏族もないという不思議な神で、重要な神でありながら中心から身を引いた神といえます。

 しかし鎌倉以降、特に江戸時代になって記紀神話の再解釈や神道思想の高揚とともに、この神を天地創造の主宰神・世界を創造し支配する最高神とする思想が生まれ、神仏習合の進展ともあいまって妙見菩薩や鎮宅霊符神と習合していったといわれます。

 この神が鎮宅霊符神と習合したのは、両者ともに宇宙を創生した最高神とされることが大きな要因であると考えられます。

※妙見信仰の現在
 妙見信仰は、仏教の北辰妙見信仰と道教の鎮宅霊符信仰、そして神道の天御中主信仰などが入り交じった複雑なものです。しかし現世利益を求める庶民からすると、そこに祀られている神仏の神格・由来など関係ないことで、ただありがたい神仏として祈ることと引き換えに、求めるご利益さえ与えてもらえば良しとしたのが実態です。
 天照大神が天を照らす満月の神だとしたらどうでしょうか。古代、太陰暦を使用していたころ、天岩戸の神話の原型がつくられたとすれば月の満ち欠けによる暦を表したものではないでしょうか。それが、太陰太陽暦、太陽暦へと変わり、満月の神が太陽神に変化し、神話もそれに合わせて変化しているのではないでしょうか。

 いま鎮宅霊符神を表に出している社寺は少なく、ミョウケンボサツを主尊とする寺院とアメノミナカヌシを主祭神とする神社に別れています。これは明治初年の神仏分離によって、鎮宅霊符神が邪神として排除されたためです。摩多羅神=鎮宅霊符神じゃないのかな?


妙見信仰と河本

 河本という名字は地名姓ですが、妙見講の講元が転じたものや道教の河図洛書、陰陽五行と関係する陰陽道、修験道にかかわるものがあります。
 久米郡や弓削荘でも農耕とともに水運にかかわってきた一族で、北辰妙見信仰に深くかかわっていると思われます。
 古くは、道教、陰陽道に由来する北辰信仰、仏教の時代には妙見信仰となり、戦国時代の動乱の中では妙見信仰と深いかかわりのある日蓮宗(法華宗)を信仰していたのではないでしょうか。天文法難で京都から避難してきた人々もいるでしょう。
 河図洛書の中心は5。河は天体図であり、その中心を示しているといえます。


 妙見山の麓に河本の地名がある。

 岡山県苫田郡鏡野町河本

 津山市西部から北西に、丁度中国山地の出城のように見えるのが、妙見山から矢倉山へと続く連脈です。 その背後には、大空山や不溜山が控えています。
 妙見山の山頂には妙見菩薩を祀る北辰妙見宮があり、昔から「桧山の妙見様」と呼ばれ信仰されています。

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